鉛玉を携えて









ACカウンセラーmichikoでございます。
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「おいっっっ!!」
ただならぬ気配をまとった怒声に、
びくんと肩が跳ね上がりました。
ふすま続きの三部屋と
中廊下を隔てた更に向こうの
リビングから発せられたその怒声は、
猛スピードで投げ込まれた
大きな鉛玉のようでした。
鉛玉は、嫌悪や敵意や苛立ちを幾重にもまとい、
攻撃という明確な意思を持っていました。
当時私の他、家に居るのは兄一人。
茶室で稽古の準備をしていた私は、
次の瞬間、
声の方へ駆け出していました。
足はガクガクし、
心臓は飛び出しそうでしたが、
そんなものはどうでもよかった。
暴力と暴言で支配された記憶が鮮明に蘇ります。
怖い。
直ちに兄の要求を満たさなければ。
「換気扇つけっぱなしてんじゃねーよ!」
大声に再び肩が跳ね上がりました。
確かに私は換気扇を回したままでした。
母が普段そうしているように
台所のコンロを使って
稽古で使う炭を起こし
それを茶室に運ぶ際、
辺りに残った炭の香りが気になったので
換気扇を回したままにして
その場を離れたのです。
言い訳をする暇なんてない
もたもたしていたら平手が飛んでくるかもしれない
「ごめんなさい」
慌てて換気扇を消したところで、
再び怒鳴られました。
「だいたいてめえ、
人んち来たなら『お邪魔します』だろ!」
「社会人として常識だろう!」
お腹の奥で何かが疼きました。
人んち。
お邪魔します。
常識。
ここは私の実家です。
稽古の手伝いの他、
結婚し家を出た後も
多忙な母に代わって食事の支度や洗濯、
買い物等をするために、
私は週何回も実家に通っていました。
玄関では
「こんにちは」と挨拶をして上がりますが、
実家に立ち寄る娘という立場を考えると、
兄の言う「お邪魔します」が
社会人の常識とは思えませんでした。
時々訪ねてくる親戚だって
そのように他人行儀な挨拶はしていません。
その頃の兄は、
私の挨拶を完全に無視するようになっていました。
私にだけならまだしも、
まだ小学生だった
二人の娘たちにさえも。
伯父の態度に戸惑う娘たちの様子を思うと
お腹の底が再び疼きました。
口ごたえは必ず暴力で封じられる。
それでも私は、
爆発しそうな心臓を押さえ、
一息で吐き出していました。
「いつも『こんにちは』と挨拶してから上がっているし、
子どもたちにもそうさせています」
「私や子どもたちの挨拶を
ずっと無視しているようですが、
それは常識なんですか?」
肘から先が震えていたのは、
寒さからだったのか
恐怖からだったのか。
あるいは
蓄積された怒りからだったのか。
面と向かって
多分初めての口ごたえでした。
「それはてめえと話したくねえからだよっ!」
「てめえがこの家に来るのは、
俺もお袋もウエルカムじゃねえんだぞ!」
確固たる敵意を持って投げつけられた鉛玉は、
震えながらやっと立っていた私に
壊滅的な打撃を与えました。
それは一時の感情による
単なるいさかいレベルではなかったのです。



そんなはずはない。
私はその場に立ちすくむだけで、
何年もの間、
そこから動くことが出来ませんでした。



当時のことを
時々思い出してしまうことが、
実は今でも
ごくたまあにあるのです。
その感情を的確に表現することが、
私は未だに出来ません。
出来ないのですが、
嘆くだけで終わっていた頃よりも
その鉛玉が
小さく軽いものへと確実に変化していることを感じます。
私たちは、
鉛玉をいくつも抱えて生きています。
過去に受けたそれは、
事実として確かに存在し続けるもので、
決して消滅するものではありません。
私たちは
それを携えながら生きて行くしかないのです。
けれども、
携えながら生きることが
さほど辛いことではなくなってきたようだと感じられたなら、
それは試行錯誤し行きつ戻りつ
これまでご努力してこられたことが
回復に向かうという形で
実を結びつつある証ではないかと思うのです。
痛みや傷という鉛玉を携えて、
それでもなお生きていく。
それは誇らしく尊いことだと、
私はそう心から思うのです






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