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一人ではありません




訪問くださり、大変ありがとうございます。

年明け初投稿が本日になってしまいました。
お陰さまで
昨年も充実した一年を過ごさせて頂きましたが、
ブログの更新が、
一昨年に輪をかけて
ゆっくりペースとなってしまいました。
本年は、
更新頻度を上げるよう努力したいと思います。
そして一つひとつの記事は、
必要とする方に届きますよう思いを込めて、
丁寧に書き上げるつもりでおりますので、
本年もどうぞよろしくお願いいたします。



一昨年は父が、
昨年は母が亡くなりましたので、
我が家は二年続けて
年賀状のないお正月。
ちょっと寂しくも感じましたが、
のんびり穏やかに新年を過ごしました

そして松飾りが取れる頃
小学生の頃お世話になったY先生から
寒中お見舞いを頂きました

シンプルな無地のハガキに流れるような文字。
いつもの懐かしい筆跡です

亡き母のことに触れ、
「元気になれるようにを送ります」
とありました。

  

小学3年生に上がる春に
他校へ異動になってしまったY先生。

人見知りで消極的な私に
他の児童と分け隔てなく接し、

学校という独特の環境で
生活するための基礎体力を

無理なく身に付けさせてくださったと、
今でも感謝しております。

Y先生は褒め上手でいらっしゃいました。

例えば体育の授業では、
キレイに前屈ができているからと、
お手本として舞台に上げてくださいました

国語の授業では、
上手に書けているからと、
作文を読み上げてもくださいました

家ではダメ出しばかりされ、
劣等感で一杯だった私に、
日々の学校生活の中で
小さな自信を付けさせてくださったのです。



当時私は、
毎年、先生のお誕生日に小さなプレゼントを贈りました。

幼いながらに、
Y先生への感謝のつもりだったのかも知れません。

贈り物はお手紙と
折り紙やフエルトで作った粗末なマスコットの類

大人の女性がもらっても、
迷惑なものばかりだったと思います

何年か繰り返した後、
いつしか年賀状だけのやり取りになりましたが、
毎年ハガキのわずかなスペースに、
近況報告をさせて頂いておりました

確かあれは、
上の娘が小学校に上がる年の、
早春のことだったと思います

ある日Y先生から
甘い香りのする小包が届きました。

開けてみると

真っ赤に艷めく
大きなが沢山

娘たちも私も、
思わず歓声を上げました

添えられたお手紙には
こう書かれていました。

「昔あなたから頂いた
沢山の誕生日プレゼントのお礼を、
いつかしようと思っていました。
あの時の小学校に通うお嬢さん達と
一緒に召し上がってください」

   

もう20年近く前のことですが、
当時の感動は鮮明に憶えています。

   

私は、母の死を淡々と受け止めましたし、
日々落ち込んでいるわけでは全くないのですが、

Y先生からのお便りに、
私の心は今、ほかほかです。

この方から
今も私はこうして支えて頂いている

そう思えたからです

人は、
人によって癒されてゆくものなのだといわれます。

何年も前に、初めてそれを知ったとき、
私を気にかけてくれる人など
誰一人居ないのだと
かたくなに信じ込んでいた私は、

永遠に癒されることは無いのだと
絶望しました。

そして何が何でも、
自分一人の力
どうにかしなければならないと、
必死になりました。

けれども次第に、

必ずしも
一人きりで頑張っているわけではないのかもしれない

そう思うようになりました。

絶望から少しずつ、
解放されて行ったのです。



最終的な拠り所が自分自身であることは間違いありません。
セルフカウンセリングが出来ることが、
生きやすさそのものだと私は思います。

ただ、その過程のどこかで
人の支えは必要であり、

今もし生きやすさを感じているとしたら、
それは何人もの方による支えが
確かにあったからこそだと思うのです。

支えてくれる方は

「友人」と呼べる相手とは限らない。
「仲間」という程の間柄でもないかもしれない。

ほんの少し、
認めてくださり、
心配してくださり、
共感してくださり、
考えるきっかけをくださり、
気持ちを軽くしてくださり、・・・



実は私たちは
こうした支えに、
日頃ちょこちょこと遭遇しているのだと思うのです。

今でも私は、
体調が優れないときには
ネガティブな思考に支配され、
一人きりでぽつんと
取り残されたように感じてしまうことがあります。

けれども、
一人きりではありません

必ずいらっしゃる
支えてくださってる方が

そこに気付けるだけの心の余裕を保てるよう、
歳を重ねて行けたらいいなあと、
そんな風に思うのです。






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ありがとうございました

褒められること

ACカウンセラーmichikoでございます。
訪問くださり大変ありがとうござます。





少し前に、髪を切りました

鏡の前でヘアカタログを提示しながら
いわゆるイタいおばさん(笑)と思われないようにと、
美容師さんと相談して
12〜3センチカットしパーマをかけました

夏の間、長い髪をまとめて過ごしておりましたので、
カットしたことで印象は変わりましたが、
それほど思い切ったわけでもなく、
これまでも何度かしていた雰囲気の仕上がりに

翌朝、
もっと短くしても良かったかなあ。

ワックスを簡単に揉みこんで出かけると、
何人かの方が髪型の変化に気付き、
褒めてくださいました。

具体的な言葉は割愛します(・・照れくさいのです)が、
とても素敵な言葉をかけてくださったのです。

・・・自慢したくてここに書いているのではありません

そのお褒めの言葉はありがたくて、
とても嬉しいのだけれど、
・・嬉しいのだけれど、、、

私は急に居心地が悪くなり、
混乱動揺してしまったのです

(。Д゚; 三 ;゚Д゚)

そんな自分に、
ちょっとがっかりしました。

動揺を悟られまいと
これでも相当頑張りましたので、
その都度
それなりの反応でお返ししてやり過ごせていたと思います。

けれども内心はどうにも落ち着かず、

どうか早くこの話題から遠ざかってくれますように
どうか皆さんの注目が私ではないところへ移りますように

そうすがるような気持ちでおりました。



私の中には
動揺するきっかけとなる「スイッチ」
いくつかあるのですが、

どうやら容姿にまつわることも
その「スイッチ」の一つのようです。

体調に影響されるものですから、
いつでも毎回、というわけではないのですが、

容姿について何か言われると
たとえそれが褒め言葉であったとしても、
落ち着かなくなってしまうことがあるのです

昔兄や母に言われた否定的な言葉
その時の感情が、
かすかに頭をよぎってしまい、

どこか信じられないといいますか、
素直に受け取れないといいますか・・。



若干、
解決していない課題が残っているのだと思います。

随分練習したんだけどなあ

褒め言葉を頂いたら、
「ありがとうございます」とさらっと受け取ることが、
大分できるようになっていたと思っておりましたが、
そうではありませんでした。

けれども、
上手く受け取ることが出来ないもどかしさや混乱を、
あらためて感じることはできました。



日頃カウンセリングでは、
小さな褒め言葉を受け取る練習をしていただいています

これが自己承認を促すステップであり、
自己愛を育てるトレーニングになると考えるからです。

もちろん私も、その練習を重ねて参りました。
ですので以前とは比べものにならないほど、
褒め言葉を素直に受け取ることができるようになっていると思います。

けれどもせっかく褒めていただいた(=承認された)というのに、
今回のように、
他者から認められた自分を上手く認められない事態にも、
時々陥ってしまうのです。



承認

かつて私は、
母からの承認をどれほど欲していたことでしょう。

もっと年齢を遡れば、
承認欲求など
持っていないふりをしていたようにも記憶しています。

それは
認めて欲しい
褒めて欲しい


そう求めるほどに、
母がどんどん遠ざかっていくような
不安があったからかも知れません。

できたからって調子に乗るな
やれて当たり前だ


そんな言葉と共に。



強い承認欲求は、
劣等感が強く働いているということなのだともいわれます。

ひょっとしたら
幼い私は感覚的にそれを知っていて、
ダメ出しの連続から必要以上に傷つき易くなり、
自信を喪失していたことに決して気付かれまいと、
承認欲求など持っていないふりをしたのもしれません。



今の私は、
かつての私とは環境が異なります。

褒められたいと自然に感じて、
褒められたなら素直に喜んでいい

褒められたことを素直に受け取れた時の喜びというものは、
それはそれは素敵な体験

これはきっと、
承認欲求を
自己承認という形で満たすことができた喜びなのだと思うのです

笑顔で心から、
「ありがとうございます」と言えるよう
今日もまた、トレーニングを続けようと思います。




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ありがとうございました

テーマ : AC(アダルトチルドレン)
ジャンル : 心と身体

報酬系の有効利用

ACカウンセラーmichikoでございます。
大変ご無沙汰いたしております。
久しぶりの更新ですのに、
訪問くださり大変ありがとうござます。



ご心配おかけいたしましたこと、
深くお詫び申しあげます

気にかけながら、
今回は手を着けられませんでした

体力的にも時間的にも、
余裕がなかったのです

日頃私は
専ら主人の仕事を手伝っております。

例年この時期は繁忙期なのですが、
特に今年は
夏前から業務が山積みとなり、
ブログ更新に
エネルギーを回すことができなかったのです

未処理の仕事が積み上がってゆくと
多かれすくなかれ、誰しもいらだつもの。

そう解っているから尚のこと、
主人の気持ちの変化を推測し
言動に注目し、
いらだちの片鱗を
いちいち拾ってしまっておりました

ACの方の多くがそうであるように、
私は、
ピリピリとした空気
必要以上に感知し反応してしまうのです

長い年月をかけて培われてきた生き方の
呪縛というものの恐ろしさを、
今年あらためて実感いたしました。

その一方で抱かずにいられないのが、
自己嫌悪でございます

日頃「境界線」のことを
クライアントさまにお伝えしていながら

連日自分自身に降りかかる問題となると、
そうそう健全な対処ができず、
追い詰められたような気持ちになって
何から手をつけたらいいのか分からなくなってしまう。

(。Д゚; 三 ;゚Д゚)

どうしていつもこうなのでしょう
この悪しき癖を
何とかして無くさなければなりません。


(ノ_<)



少し業務が落ち着いた今だからこそ
こうして振り返ろうと思えるのです。

結果として
山積みだった仕事は
こなすことが出来たわけですが、

もっと楽にこなすには
どうしたら良かったのでしょうか。

多分私は、
出来ることから
淡々と手を付ければ良かったのです

この「出来ることからやる」ということ、
単純なようですが
とても大切なことだと思うのです

出来る範囲の小さなこと、
手初めにすることとしては、
悩んだり考えたりせず
機械的にできることがお薦めです

例えばある日の私の場合
(今振り返れば、そうしていたということなのですが)、
不要な書類をひたすらシュレッダーにかけました

ダンボールに溜めてあった書類たちを処分すると、
気持ちがすっきりし、小さな
「達成感」が得られました

きっと脳内に、微量ながらも
「報酬系」のホルモンが出ていたに違いありません。

.゚+.(・∀・)゚+.

一般的に
「良くない行動」を減らそうと考えがちですが、
実はハードルがとても高いようです。

悪い癖だと解っていても、
どうしても人の怒りやいらだちに反応してしまう。

これを止めようと設定した高いハードルは
一向にクリア出来ず、
出来ないことに注目し、
嫌悪否定といったマイナスの感情
自らを攻撃する悪循環にもがきます。

苦しく辛い状況です

ならば、
今すぐできる「シュレッダー」から片付けて
すっきりした方が
ずっと健全と言えそうです。

恐らく「報酬系」のホルモンで
気分がよくなったのでしょう。

その後私は主人の機嫌など気にならなくなり
淡々とできる仕事に手を付け
程よく処理することができました



以前受講した講座で
精神科医の大野裕先生が
こう仰っていました。

「良くない行動を減らすためには、
楽になる行動を増やすと良い」




出来ないことに注目してしまうことは、
人間の防衛本能ではありますが、

苦しくなってしまうことを
わざわざ選択しなくてもいいと思うのです。

ベースはそのままでいい

困難を生き抜いてきた私たちは、
もっとに生きればいいのだと、
そんな風に思うのです。



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処分と保留

ACカウンセラーmichikoでございます。
訪問くださり、大変ありがとうございます





やらなければと思いながら
あれこれ言い訳をして先延ばしにしていた
季節の衣類の入れ替え

先日ようやく、ある程度整えることができました。
いつものことですが、少々時間がかかりました。

私はいつも、
先ずは冬物衣類の始末から手を付けます
次のシーズンの要・不要を判断しながら、
少しずつ手入れし片付けてゆきます。

そうしてスペースを空けてから、
夏物を出すようにしているのですが、
「不要」を決断することは、
ちょっと勇気が要ることだったりします

シンプルにすっきりと暮らしたいですし、
限られたスペースを有効に活用したいので、
新しいものを購入したら、
同じ数だけ古いものを処分することは、
日頃積極的に行なっております

主人は躊躇なく何でもどんどん処分するタイプ。
ですので主人と買い物をしたあとは
もう確実に「処分」しております。

・・・しているのですが、、、  

「不要」の決断には、
ちょっと勇気が要るのです

それに
数日かけて行う衣類の入れ替えは、
新しいものを購入した時のように
テンションが高いわけでも、
主人の目が光っているわけでもありません。

もしかしたら使うかもしれない
災害時に便利かもしれない

未来のことだけではございません。

そうそう、この間はあの服がなくて困ったんだった

ついには過去の出来事にまで思いが及び、
処分したことを後悔した日のことまで
執拗に思い返す始末

心配することが大変得意なものですから、
あれこれ考え出すときりがなく、
作業の手が止まってしまうのです。

んー・・・・・。
どうしてなのかなあ



きっと私には、
持っているものを失うことに対する、
「恐れ」が根底にあるからなのかもしれません。

現状維持なら落ち着くけれど、
失うという「変化」を受け入れることに、
きっと私は抵抗がある

「現状」が良いわけではないと
解っているにもかかわらず、
そこにしがみつこうとしてしまうのは

危険から身を守ろうとする
「防衛本能」が働くからだといわれます。

たとえ今まで良い状態ではないとしても、
どうやら人は、
それまでの慣れ親しんだ行動に
安心を感じてしまうもののようなのです

「防衛本能」は、
かつて人が生きてゆくために重要で
必要不可欠なものではありましたが

今の時代を生きる私たちにとって、
その全てが役に立つものではなく、
逆に生きづらく作用してしまうものもあるようです。

ですので、
役に立ちそうもないものは、
勇気をもって「処分」したほうがよさそうです

何だかACの方の課題そのもののような気がいたします

子ども時代には必要だったスキルが、
大人になった今も引き続き必要とは限らない

また、
必要以上の不安や心配を感じてしまうのは、
気持ちが「現在」にないからだと言われます。

未来のことや過去のことに気持ちがいってしまうと、
発生するのは、「不安」や「心配」、そして「後悔」

今の私は「すっきりと暮らしたい」のです。

それならば、
「現在」にしっかりと気持ちを置いて、
何が必要なのかを見極め、
不要な衣類は、
勇気をもって
処分しなければなりません

よし!気持ちは固まりました(´∀`*)


・・とはいえ実は、、、

どうしても判断に迷うものがいくつかあり、
こっそりクローゼットの片隅に、
吊るしたままにしております

「保留」という
便利な考え方でございます。

・・こんなものです
言い訳をするようですが、
決めかねることについては、
「保留」であっても良いんじゃないかなあ
そう私は思うのです。

加えて、このことは、
主人には内緒でございます
ヽ(´∀`)ノ




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ありがとうございました

神話

ACカウンセラーmichikoでございます。
訪問くださり、大変ありがとうございます





「残す人って、自分の管理が
きちんと出来る人なんだなって思う」


カフェでアルバイトをする娘が、
こんなことを申しました。

そのカフェでは簡単な食事も提供していて、
食べ残しの片付けをするとき、
そう思うのだそうです。

「うん、そうだと思うわ」と私。

廃棄する食べ物の量の多さを批判される日本。
何という不謹慎な!と、ご立腹された方、

親(・・わたくしでございます)も親だし、
しつけもまるでなっていない!と思われた方、

ごもっともでございます
ご不快な気分にさせてしまいまして、
申し訳ございません

一応私も、娘たちが幼い頃には、
お茶碗に残ったご飯粒を許しませんでした。

「お残しはいけません。
好き嫌いはいけません。
どれほど沢山の人の手がかかっているのか、
そのご苦労を考えなさい。」


キレイに平らげることを
美徳とし育てて参りました

それが
絶対的に正しい
そう信じていたのです。

ところが数年前から、
それは
必ずしも「絶対」ではないと思うようになりました。

きっかけは、
メンタルの調子が整わなくて
身体の消化機能がうまく働かず、
一度に沢山頂くことが難しくなったことです。

無理して頂けば、
必ず吐き気や消化不良を起こします

お付き合いで食事をすることは恐怖でした

量を調整できる場合は、
びっくりされる程
少なく取り分けてもらうことで自己防衛

「そんなちょっとでいいのー!?」
と引かれてしまうことも

調整ができない場合には、
無理して平らげ
帰路でトイレに駆け込むことになりました

食欲旺盛でキレイに美味しそうに完食する方は、
見ていて本当に気持ちの良いものです。

でも、そうしたくても、
頂けないのです

心の緊張は驚くほど身体に影響します。
体調が悪いときは、無理する必要はありません。

小食の友人がいて、
彼女との外食は気が楽でした。

よく観察すると、
店内には他にも残す方はいらっしゃる

丁寧に隅によせて残すなど、
私も無理をしないようになりました

そう言えば小学1、2年生くらいのころ
給食を食べきれず、
居残りさせられたことが何度かありました。

三月生まれの私は
背の順でも前から二番目、
どうにも量が多すぎたのです

アルマイトの食器に盛られたおかずは、
どんなに頑張っても一向に減らず、
一口ごとに牛乳で何とか流し込みました。

どこからかやってきたKくんとSくんにからかわれ、
半べそをかきながら格闘した記憶が(笑)

食べ物の大切さを学ぶことや、
好き嫌いをなくすためのしつけの一貫として、
当時給食の居残りは珍しくない時代でした。

「残してはいけない」という「神話」に、
縛られていた側面もあったのかもしれません。

もちろん、そうした「神話」があるからこそ、
人は自らを律することが出来、
節度やマナーを身に付けることができるのでしょう。

でも、「神話」に縛られすぎることは、
時に自分を必要以上に追い込んでしまう。

「母親神話」、「三歳児神話」、「安全神話」・・・
私たちの周りには、色々な「神話」がございます。
その「神話」は決して永遠のものではなく、
そこにとらわれすぎる必要は無いと思うのです。

その時々で、柔軟に対応する
あるいは、思い切ってそこから離れてみる

それでいいんじゃないかなあ

大切なことは、
「自分自身を守ること」
そう私は思うのです。

かつて「神話」を取り込んでいたはずなのに、
いつの間にか冒頭の考えを持つようになった娘を、
何だか少し、頼もしく思いました
・・しつけの出来ていない親でございます

「神話」:かつて絶対と信じられ、脅威の的とさえなっていた事柄。
(現在は俗言に過ぎないという観点で用いられる)
―三省堂国語辞典より―




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プロフィール

michiko

Author:michiko
公認心理師/精神保健福祉士
東京認知行動療法アカデミー
認定カウンセラー


ホームページはこちら

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・人にものを頼むことが苦手
・人の依頼や誘いを断ることが苦手
・主張するより周りに合わせる方を選ぶ
・自分が我慢する方がいい
・「こうしてくれればいいのに」といつも思うがうまく言えない
・自分の気持ちを汲んで欲しいのに、と強く思うことが多い
・そもそも自分がどうしたいのかよくわからない
・人を助けているうちに、自分が困った事態になっている
・困っていても自力で何とかしようとする
・仕事を一人で抱え込みやすい
・見捨てられるのが怖くて恋愛関係にまで踏み込めない
・恋人に対して必要以上に依存している、または支配していると思う
・誰も自分のことなど関心がないと思う
・周りの期待通りにしなければと思う
・もっと頑張らなければいけないと思う
・いつか裏切られるような気がする
・いつも不安で仕方ない
・相手の機嫌を自分が何とかしなければと思う
・相手の問題を本人以上にあれこれ考え世話をして疲れてしまう
・不機嫌な人がいると自分のせいではないかと思ってしまう
・怒りの感情を出さないので、よく「いい人」と言われる
・自分は楽しんではいけないと思う
・自分のためにお金や時間を使うことに罪悪感がある

 以上のことをこれまでの人生で繰り返してきた
 michiko

40歳を過ぎてからアダルトチルドレン(AC)だと自覚しました。
ACの概念が、幼少期から漠然と抱えていた生きづらさの由来を理解する助けとなり、
自身の扱い方を試行錯誤した結果、今ではこれまでよりずっと楽に生きていると実感しています。

このブログを、楽に生きるためのヒントとして活用頂けたら嬉しいです。


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