病を抱えて生きるということ その2









ACカウンセラーmichikoでございます。
訪問くださりありがとうございます。




















さて、前回の続きでございます

少し面倒な病を抱えて生きることとなった私は、
周囲や社会から
「必要とされなくなる恐怖」に怯えました。
そして恐怖から解放されるために、
自らを消すことを想像するという、
不健全な考えを繰り返すようになりました

どこでどんな手段が最善なのだろう


いいえその前に、
そもそも病院に行かなければ
このような事態に陥らずに済んだはず

そうだ、病院になど行かなかったことにして、
このまま放置してしまえばいい


私は、恐怖が消え日々穏やかに過ごす自分を想像し
思い至った考えの素晴らしさにしばらく酔いました。
(」*´∇`)」 (」*´∇`)」
・・・しかし
放置したからといって
病気や私の身体が消えてなくなるはずはありません

恐る恐る調べてみたところ、
放置したまま病状が進むと
とんでもなく厄介なことになるということが分かりました。
(´・_・`) (´・_・`) (´・_・`)
うつうつとした気分をよそに時間は過ぎ、
検査・入院・手術へと私は流されて行きました。
退院後は体力の低下に愕然とし、
機能の欠けた身体を悲観しました。
(ノ_<)
楽天的な展開はもはやあり得ません。
家族の前では明るくするものの、
「必要とされなくなる恐怖」は
日ごとに現実味を帯び、
気持ちがどんと沈みます。
○| ̄|_
術後の治療が始まると、
薬の副作用に強烈なダメージを受けました。
ただ横たわっていることしか出来ず
何の役務も提供できない自分は、
周囲に迷惑をかける存在でしかないと思えました。
奮い立たせて仕事や家事をしてみても、
体力が続かず自信を失うばかり

「必要とされなくなる恐怖」は強くなり続け、
浮かぶ考えは例の不健全な
どこでどんな手段で~のあれこれです


フィジカルとメンタルは表裏一体であるとよく言われますが、
まさにその通りでした



ただ、そのような状況でも、
頭の片隅にはひとつの思いがちらつくのを感じました。


それは
「丁寧に生きる」


ということ。
生きる時間の長短にかかわらず、
丁寧であることが、
私自身が楽に生きるために必要であると、
数年前、考えに考え抜いて導き出した
これはいわば私の人生の指標のようなものです。


今の私は、自分に丁寧な態度でいるだろうか

援助の仕事に復帰するためにも、
繰り返し浮かぶ不健全な考えを整理する必要があると思えました。


数日後、
私は尊敬する先生の元を訪ねました。
溜め込んでいた感情を吐露させて頂いたのです。
ネガティブな思いを十分聴いて頂いたことで、
私の中に膨れ上がっていた感情が
扱いやすくサイズダウンしたように感じました。
「必要とされなくなる恐怖」に怯えるあまり
「他人に役務を提供すること」にしがみつくなんて
大変馬鹿げていると思えました。
今の私にとって大切なことは
「丁寧に生きる」こと

そしてもっと大切なことは、
それは決して「完璧でなくていい」ということ


自分の在りようが
丁寧であることから逸れていると感じたら、
振り返って軌道修正すればいい





先生から、こんな言葉を教えていただきました。
アインシュタインの大変有名な言葉だそうです。

There are two ways to live your life.
One is as though nothing is a miracle.
The other is as though everything is a miracle.
人生には二通りの生き方がある。
一つは、奇跡など全くないかのように生きること。
もう一つは、全てが奇跡であるかのように生きること。

病を抱えて生きることも、
丁寧に生きようとすることも
それは奇跡なのかもしれません。
そして
数多くあるブログの中から
このページを訪問くださり
こうして最後までお読みくださったこと、
私にとってこれはまさに奇跡に他なりません





つらくなりすぎる前に一度、おいでください。
最後までお読みくださり、ありがとうございました。
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